教育と宗教は分離できるのか

今日、山手線車内のテレビを見ていると、「中学校でダンスが必修化・・」というニュースが報じられていて驚いた。「ダンスが必修科目となるため専門の指導員を確保する」というのだ。武道の必修化もあり、正直、文科省の迷走ぶりにあきれてしまったのだが、本題はそこではない。武道やダンスは政教分離の原則に反しないのだろうか、とふと思った。

歴史的にダンスは宗教活動に密接にかかわってきた。神事に踊りはつきものである。お祭りには踊りが欠かせないし、宗教行事を執り行う僧侶たちの動作にも一定の「型」がある。これも広義のダンスとみなせるだろう。

ダンスは、高揚する気分を抑えきれずに体を動かす人間の習性から発生したものだろう。気分が高揚した状態、いわゆる「ハイな状態」にあるとき、人は、「神が降りた」とか「神を見た」と言う。つまり、自然なダンスを踊っている状態は、神格的な「何か」とリンクしている状態と認識するのが自然なのである。

さて、日本国憲法には、「信教の自由」と「政教分離の原則」が明記されている(第20条)。条文には次のようにあり、少なくとも公立学校教育における、宗教的な活動が禁止されている。
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
小学校の社会科で習う内容だが、よくよく考えてみると、「宗教と教育を分離することは不可能なのではないか」と思えるのである。なぜならダンスと宗教が重なる部分があるように、社会と宗教は密接につながっているからだ。国家も宗教団体のひとつと考えてもなんら不自然ではない。憲法を経典と読み替えれば、立派な宗教団体である。(憲法の中に「宗教」という言葉が出てくるところは、再帰になっているが。。)

教育と宗教の分離は世界的には一般的ではない。明治時代、新渡戸稲造がイギリスへ留学したとき、「日本には宗教教育なしにどうやって道徳教育をするのか?」と問われ、答えに窮したという。そこで考えに考えて出てきた答えが「武士道」である。中国の教育観も儒教が中心になってきた歴史がある。

ここまで書いてきて、やや考えがまとまらなくなってきた。

これは西洋と日本の教育観の違いのあらわれなのだろうか。西洋の教育が基本的に理性的人間を育成することに目的をおいているのに対し、日本の教育はもっぱら実学(読み書きそろばん)の技術を習得させることに重点を置いている。

さらには、西洋と日本における宗教の位置づけのちがいなのかもしれない。西洋の宗教は「正しい行い」を訓練する教育的側面を持っているように思える(勝手な偏見かもしれない)が、日本の宗教は、「信じれば地獄に落ちません」というような、「救い」を求めるものであることが多い気がする。

もう少しこのあたりを違った切り口で見てみると面白そうだ。

コメント

このブログの人気の投稿

Gbps でなく GT/s

HCSLに33オームの直列抵抗が必要な理由

PowerShellによるExcel/PowerPointの操作