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品川区教育委員会に抗議した結果。。。

東京の新型コロナ感染者数が急速に増加し始めた、4月3日の金曜日、仕事をしていると、子供が通う小学校から「4月6日に始業式と入学式を実施することと、その後も週一ペースで登校日を設ける」という内容のメールがきました。 受け取ったときには、「始業式やるんだ」くらいにしか考えていなかったものの、家に帰って考えてみると、「行く価値あるのか?」と疑問に感じました。そして、翌日考えて、子供たちは登校させないことに決め、次のようにフェイスブックへ投稿しました。 週末が明けた月曜日、小学校と品川区教委に、電話で意見を伝えました(区教委へは抗議です)。この効果があったかどうかはわかりませんが、結果としては、本日7日に方針転換され、休校期間中の登校日は無しになり、教員も原則在宅勤務となりました。 何かの参考になるかもしれませんので、ここに、今回の経緯を書き留めておきます。 月曜日の朝、小学校には始業直前の8時前くらいに電話しました。いつものように、副校長先生が電話に出ました。まず、子供を登校させないことを告げた上で、入学式、始業式、および、登校日の中止を提案。その他、オンライン保護者会や授業の実施検討を手短に要望しました。落ち着いた感じの受け答えで、よく聞いていただいたと思ったので、私も冷静に話すことができたと思います。 当日だったこともあり、入学式と始業式は予定通り開催されたものの、当初の予定よりも短時間で切り上げられた様子でした。 そして午後3時ころ、小学校からのメールで、今週8日に予定されていた登校日が中止(延期)になったとの連絡が入りました。これを受けて、小学校に再び電話し、迅速な対応に感謝の意を伝えました。そして、「いろいろ要求は出したものの、先生たちの安全が第一なので、先生方が早期に在宅勤務できるようになることを望みます」と伝えました。 この小学校とのやりとりで、登校日をもうけることは、区教委からの指示であることがわかりました。そして、その指示には従わなければならないとのこと。そこで、次は区教委に抗議の電話を入れました。時刻は午後3時半ごろでした。 区教委は、庶務課の電話番号しか見つからないので、そこにかけました。伝えたいことはメモに書き出し、冷静に話し始めたつもりでしたが、電話の相手が、寝ぼけたような受け答えをするので、ついつい頭に血が上...

歴史の勉強こそ「なぜ」を考えさせるべき

学校での歴史の勉強というと、暗記ばかりでつまらなかった記憶があります。でも、そこに「なぜ」を考える要素があれば、もっと楽しめたのではないかと思いますし、社会で役に立つ実践的な力を磨けたのではないかと思います。例えば、スペインの無敵艦隊はなぜイギリスに破れてしまったのか、自分なりに仮説を立て、歴史上の事実と照らし合わせて検証するのです。 このように、なぜ?なぜ?と考えていくと、歴史上の出来事の因果関係が見えてきて、自分なりの歴史観が形成されるとともに、思考能力が鍛えられます。断片的な情報をもとに、背後にある構造を見抜く洞察力が鍛えられます。 そしてなにより、「仮説を立てて検証する」という作業は、理系文系を問わず、すべての学問の基本ですし、ビジネスで新しい価値を創造するための基本作業です。 暗記一辺倒の歴史教育はやめて、「考える」歴史教育が必要なのではないでしょうか。

フランスの学校の先生は楽な割に高給?

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昨日聞いた話では、フランスの学校は3ヶ月に2週間の休み+夏休みがあるという話を聞いた。公務員であれば職を失う恐れも無い。その割には高い給料が保証されている。だから、フランスでは教職への人気が高いという。 「終身雇用とそこそこの給料が保証されていると、自分を磨こうというモチベーションが働かなくなるのではないか」と言ったら、その通りだという。もちろん中には例外もいるが、多くの先生方はあぐらをかいて悠々自適な生活を謳歌しているみたいだ。 これは高等教育でも同じらしい。 しかし、ボーダレスの世の中では、学生は外国の大学へ進んでしまうだろう。特にヨーロッパはEU圏内であればパスポートなしに行き来できるし、列車や車で簡単に国境を越えることができる。とくにやる気のある学生ほど外国に出てしまうのではないか。 優秀な学生の流出は、フランスの学校の衰退につながり、そして教師の職も削減されることになってしまうのではなかろうか、と余計な心配をしてしまった。 写真は、明け方のホテル正面の広場

機関車トーマスで仕事を学ぶ

テレビ番組の機関車トーマスは、「仕事とはなんたるか」が学べる、なかなか良い内容だと思う。 先日も、D51のヒロが、質の悪い石炭をもらってしまい、すすだらけでボイラーの調子がおかしくなったにも関わらず、「無理をしても走り続けなければならないときもあるんだ。」と、踏ん張って良い仕事をする、というストーリーがあった。たとえ条件が悪くても、ここぞというときには踏ん張り続けなければならないのが仕事というものである。 いろいろな機関車たちが、それぞれの特徴と強みを生かして仕事をする、というのも良い。トーマスは小型の客車を引き、ゴードンは急行列車の大型客車を引く。パーシーは郵便貨車を引く。いろんな機関車が力をあわせて、一人ではできない仕事を協力して仕上げて行くというのも良い。 そして、何より良いのは、トップハムハット卿というボスに対して、誰もが「いい仕事をしたい」「役に立つ機関車になりたい」と思っていることだ。会社という組織では、結局上司が期待する以上の成果をあげることが一番重要になる。そして、上司の役割は、部下が成果を出せるような課題を与え、成果を出せる環境と成長の機会を用意することである。ハット卿と機関車たちの間にはそのような良い環境がある。 こういうストーリーの話はあまり無いような気がする。なかなか貴重な存在だと思う。

教育と宗教は分離できるのか

今日、山手線車内のテレビを見ていると、「中学校でダンスが必修化・・」というニュースが報じられていて驚いた。「ダンスが必修科目となるため専門の指導員を確保する」というのだ。武道の必修化もあり、正直、文科省の迷走ぶりにあきれてしまったのだが、本題はそこではない。武道やダンスは政教分離の原則に反しないのだろうか、とふと思った。 歴史的にダンスは宗教活動に密接にかかわってきた。神事に踊りはつきものである。お祭りには踊りが欠かせないし、宗教行事を執り行う僧侶たちの動作にも一定の「型」がある。これも広義のダンスとみなせるだろう。 ダンスは、高揚する気分を抑えきれずに体を動かす人間の習性から発生したものだろう。気分が高揚した状態、いわゆる「ハイな状態」にあるとき、人は、「神が降りた」とか「神を見た」と言う。つまり、自然なダンスを踊っている状態は、神格的な「何か」とリンクしている状態と認識するのが自然なのである。 さて、日本国憲法には、「信教の自由」と「政教分離の原則」が明記されている(第20条)。条文には次のようにあり、少なくとも公立学校教育における、宗教的な活動が禁止されている。 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。 小学校の社会科で習う内容だが、よくよく考えてみると、「宗教と教育を分離することは不可能なのではないか」と思えるのである。なぜならダンスと宗教が重なる部分があるように、社会と宗教は密接につながっているからだ。国家も宗教団体のひとつと考えてもなんら不自然ではない。憲法を経典と読み替えれば、立派な宗教団体である。(憲法の中に「宗教」という言葉が出てくるところは、再帰になっているが。。) 教育と宗教の分離は世界的には一般的ではない。明治時代、新渡戸稲造がイギリスへ留学したとき、「日本には宗教教育なしにどうやって道徳教育をするのか?」と問われ、答えに窮したという。そこで考えに考えて出てきた答えが「武士道」である。中国の教育観も儒教が中心になってきた歴史がある。 ここまで書いてきて、やや考えがまとまらなくなってきた。 これは西洋と日本の教育観の違いのあらわれなのだろうか。西洋の教育が基本的に理性的人間を育成することに目的をおいているのに対し、日本の教育はもっぱら実学(読み書きそろばん)の技術を習得させることに重点を...

大学って何だろう?

この間の大学入試漏洩およびカンニング事件では、当初組織的犯行説も流れたようだが、結局は一受験生による単独犯であることがほぼ明らかになり、事件は収束の方向へ向かいつつある。この事件が日本中を大騒ぎの渦に巻き込んだのは、マスコミの報道によるものに他ならないが、奇しくも、それによって、大学や入試制度について考えるきっかけを与えてくれた。ここでは、身近な人たちとのツイッターなどでのやりとりのなかで上がってきた、大学に関係する「問い」について考えてみたい。 問いをまとめると、こんなところだろうか。 大学とは何だろう? 学生はお客様か?それとも商品か?それとも...? 入試制度はどうあるべきか? 今回は、「大学とは何か」について、自分の考えをまとめてみようとおもう。 まず確かなのは、大学とは組織である。教授、学生、事務職員が集まって、有機的な活動を行っている。これはまさしく組織である。 組織には共通の目的がある。大学の目的は何だろうか? なかなか難しい質問だが、それは、「人材育成を通して社会の発展に貢献すること」ではないだろうか。これは、ほとんどの大学が「使命」として掲げていることである。それに、教育機関なのだから、人を育てることが目的にならないはずがない。 もちろん、研究成果による貢献も重要な要素となるが、それも人材育成とベクトルがあっていなければならない。人材育成がなければ、それは商業目的の研究機関となんら変わらなくなってしまうからだ。大学の目的は「人材育成」を核としなければならない。 人材育成といっても幅広いが、大学は、少なくとも次の要件を満たす組織であるべきだと思う。 リーダーシップを養成する。 高度な専門的技能を養成する。 なぜリーダーシップか?労働力となるには高校までの教育で十分すぎるほどだからだ。さらに4年間以上の鍛錬を続けるからには、リーダーとなって社会の発展を引っ張って行けるような人間を育てなくてはならない。一流大学では、それこそ国家を率いるほどの、一流人材の養成を目指すべきだろう。小中学校で教えるようなことを大学で教えるのは馬鹿げている。大学はまず、リーダーシップ養成機関でなくてはならない。 リーダーシップとともに重要なのが、専門的かつ高度な技能の養成である。リーダーとして社会の発展を引っ張って行くためには、数々の...

ディベートの題材はいたるところに

昨夜何気なく見ていたニュースの中に,小中学生のディベートに適した題材を見つけた.ポリオ(小児麻痺)予防接種についてのニュースだ. ニュースによると,法律で義務付けられている予防接種が原因でポリオを発症する例があるという.その確率は,百万人に1件.ポリオを発症すると,手足の一部が麻痺して動かせなくなり,一生障害として残ってしまう. なぜこのようなことが起きるのか.それは,日本で使われているワクチンは「生ワクチン」と呼ばれるもので,「生きている」ウィルスがわずかに含まれているからだ.これに対して欧米で使われているのは,感染力を除いた「不活性化ワクチン」だ.不活性化ワクチンがあるにもかかわらず,日本は生ワクチンを使い続けている. なぜ,リスク回避策があることを知りながら,危険な方法を続けるのか?政府の答えは以下の二点. 日本には,不活性化ワクチンを製造する技術がない. 日本では,不活性化ワクチンの安全性が確認されていない. これらの理由のため,日本で不活性化ワクチンが使われるようになる見通しはまったく立っていない. 果たしてこの政府のやりかたは「正しい」だろうか? この課題は,深いテーマであるにもかかわらず,誰にでも分かりやすいので,ディベートに適している. 正解が無い.たとえ「不活性化ワクチンを使うことが正しい」としても,経済的な理由で「生ワクチン」を使うことが正当化できるかもしれない. 様々な切り口で議論が出来る.経済的な視点,人道的な視点,政治的な視点などなど. 専門知識がなくとも,議論に参加できる.なにより,問題はすべての人の人生に密接に関わる問題である. ポリオ予防接種の問題はディベートの題材として最適だ.特に小中学生にぴったりだ.彼ら彼女らが将来親となるときに,必ず関わってくる問題であるし,日本政府の構造的な問題に気づく良いきっかけにもなる.ディベートの題材はいたるところに転がっている.

ディベートに向くテーマ

ツイッターのタイムラインに興味をひかれるつぶやきがあった.どこかの中学校で,「0.999... = 1か否か」をテーマにした,ディベートを予定している,というものだった.突き詰めれば,数学の公理系を問うことになりそうなので,そうなれば面白いのだが,一般の中学生がそこに到達するのは不可能というものだろう.おそらく,これは,ディベートのテーマとしてふさわしくないのだ. では,ディベートに向くテーマの条件とはなんだろうか,と考えてみると,次の三点がうかぶ: 正解が無いこと. 正解があるテーマ(上の例もその一つ)では,そもそもディベートにならない. 適度に複雑であること. なるべく多面的にとらえることができる題材のほうが,議論が深まる. 専門知識を必要としないこと. 専門知識を必要としないほうが,多くの人間が参加しやすい. そして,ディベートに欠かすことができない物,というか,人がいる.それは,モデレーターである.特に,中学校などの,ディベート初心者が集まる場合には,良いモデレーターがいないと,議論が脱線して喧嘩になってしまったりする.だから,しっかりとしたモデレーターが必要だ. いいモデレーターとして例をあげるなら,やはり,ハーバードのサンデル教授だろう.講義 Justice の議論がいいお手本になる.

大学もマーケティングが必要

京大理学部が,ウェブサイトに寄付募集の掲載を始めたという( [Asahi.com] 京大理学部SOS「このままでは教員削減」 寄付募集中 ).このウェブサイトの存在については,すでに,ツイッターで知っていたが,切実な状況が伝わってくる. しかし,このやり方では心もとない.寄付する側のメリットが不透明なので,集まる金額にはそれほど期待できない.アメリカならば,卒業生からの厚い寄付が期待できるかもしれないが,日本でそれは無い.もっと強力なスポンサーを獲得する必要がある. どうすればいいか,それは,京大の研究内容を買ってくれる人を探せばいい.要は大学のマーケティングだ.黙っていてもお金がもらえた時代は去ったのだから,お金を払ってくれる人を,自ら開拓せねばならない.たとえば,中東などのオイルマネーで潤っている地域に分校を作れば,現地の政府からも補助金を引き出せるだろう.それから,お金を積めば優先的に入学させる制度を考えてもいい.とにかく,大学の教育サービスなり,研究サービスを買ってくれる人を探さなくてはならない. 寄付といっても,それには対価がなくてはならない.「大学を支えている」という満足感だけで十分だろうか?経済学部の協力も得て,ぜひよりよいファンドレイズ法を設計してほしい.

英語教育より哲学教育が先

私は,英語教育は大切だと思うが,それよりも先に,哲学教育を充実させるべきだと思う.なぜなら,それが,日本の衰退を防ぐうえで,最も重要な役割を果たすからだ.英語は所詮「道具」なのであって,それ自体が価値を生み出すことはない.それよりも,問題なのは,日本人の集団知の低さが,日本の国力を,相対的に低下させていることにある.個々の知力は優れていても,集団になったとたん,総和よりも低い知性となってしまう.シナジーどころか,足の引っ張り合いが起きてしまう.その結果,生み出す価値が低下し,さらには,国の成長が止まっているのだ.これを打破するには,集団知を高めねばならないが,どうするか?それは,発展的な議論をする力をつけることだ.古代より,人類は,議論によって個々の知性を結集し,より優れた知性へ発展させてきた.そして,その議論を鍛える学問こそ,哲学なのである.日本は,まず,哲学教育を充実させることによって,国力の強化を図るべきなのであって,決して,英語教育が先であってはならない.