捕鯨やイルカ漁に反対する考えについて思うこと

世界には、クジラやイルカ(生物学上の区別は曖昧らしい)の捕獲や食肉化に対して、強く反対する人たちがいる。日本の調査捕鯨船に対する、シーシェパードの強硬な妨害活動は記憶に新しいし、映画「ザ・コーブ」の製作・公開もあった。日本人の感情としては、これらの反捕鯨派には反感をもつのが普通なのだが、ちょっと冷静になって、反捕鯨派の論理を考えてみたい。

なぜクジラやイルカを捕獲して食べてはいけないのか。多くの反捕鯨派の論理は次のようなものだと、私は考える。

「クジラやイルカは、人間と同じように、理性的な生き物である。だから、クジラやイルカを食べるという行為は、人間を食べるのと同じように、罪深いことなのだ。」

「そんな馬鹿な、クジラが人間と同じなら、牛や豚だって人間と同じだ。」と反論してしまいがちだが、それでは信条の問題に帰してしまうから、そこで議論は紛糾してしまう。

そうではなく、ここで検証すべきは、「クジラやイルカが理性的な生き物であるかどうか」である。普通の人は、「人間を殺して食べることはいかなることがあっても許されない。そんな恐ろしいこと想像したくもない。」と考えるだろう。「食人は罪である」という点においては、多くの人が合意するに違いない(食人については、サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』に興味深いい裁判例が紹介されている)。したがって、クジラやイルカを食べることが、人間を食べることに相当するのかどうか、ということを検証しなくてはならない。

では、クジラやイルカが理性的な存在であることをどう検証したらいいだろうか。つまり、理性を持っていることをどう検証したらいいのだろうか。そもそも理性とは何か。カント哲学的には、「自然法則や本能から独立した行動規範」というところだろうか。。。

正直、ここまでくると、深い領域に入っていってしまうので、今回はここらへんで一時停止することにする。

ここに書いたことは、そもそも出発点が仮説に過ぎないので、すべてがひっくり返ってしまうかもしれない。実際には、個別の言い分に耳を傾けなくてはならない。

重要なのは、そのときに感情論に走ってしまわずに、一つ一つの根拠の検証を積み重ねる議論を進めることだ。もちろん議論しても合意に結びつくとは限らない。しかし、そうした議論こそ、互いの考えの理解につながり、新しい考え方の発見に繋がる。

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